« おひさしぶりです。(BlogPet) | トップページ | [占]キャラミル研究所 »

準優勝と次点

世の中の勝負事は、Booleanとそうでない部分から構成される。
結果はBooleanだが、何をもってtrueとするかは人それぞれだ。
プロセスを重視すれば、極論すれば負けてもいいんである。
が、しかし、何らかの同一基準をもって測るのが勝負事の特徴である。
というわけで、準優勝と次点の悔しさは格別である。

…なにを寝ぼけたことを言ってるのかって?
いや、「負け犬」の戯言ですよ。

負けず嫌いだとよく言われるのも間違ってなくて、
わたしは基本的に勝負師である。
しかし、ある時をもって、わたしはいっさいの勝負事から降りてしまった。
たぶん、それは、学生時代のある囲碁の大会だ。

碁というのは勝ち負けがほぼ決まるゲームだが、
ハンディキャップの付け方は非常に相対的かつ曖昧である。
わたしにとって、それは非常に気持ちの悪いものであった。
その頃、わたしは基本的にハンディキャップを使わない団体戦で、
どうやって自分のいる弱小チーム(でも歴史はある)を上位リーグに残留させるかに注力していた。
リーグ戦という場(要するにトータルの勝ち数が最後にモノを言う)において、
自分と他数名の駒を最大限に使って、勝ち数を稼ぐか、
相手の出方を予想しながらメンバーを配置していた。
不戦勝でも勝ちは勝ち、そううそぶいていたものだ。

団体戦は、そうやって戦っていた。

年に1回だけ、女子学生の個人戦があり、
「段位者」と「級位者」の2つのクラスに分かれていた。
本来はインカレの女子学生全国大会の予選にあたるのだが、
段位を持つ女子学生があまりにも少ないため、
級位者クラスの優勝者にも全国大会の枠が与えられていた。

当時わたしは「初段”格”」と言われていた。
要は六段の人に6つ分のハンディキャップをもらえばまあまあ互角に戦えるレベルである。
(将棋の駒落ちの代わりに、囲碁はあらかじめ「置き石」というものをもらえる)
当然、段位者クラスに出場するのが筋である。

しかし、三段の人にも6つ分のハンデをもらっても勝てない事が多いのだ。
碁会所では6級で平気で負け越すくらい。
要は、自分の辞書にない手に対応できないのである。

ということで、「級位者」クラスで出場。
対戦者は大学に入って碁を始めた人ばかり、
碁会所のおじちゃん達(失礼!)と比べて力任せに打たない。
つまり、教科書通りの手をどれだけ知っているか、間違えないかで勝敗が決まる。
高校時代から碁を打っているわたしが有利なのは明らかだ。

決勝戦は僅差であったものの、優勝した。
しかし、やはり嬉しくはなかった。

その頃から、碁では勝ち負けではなく、徹底してプロセスに拘るようになった。
プロセスにこだわるほど、碁を打つのが怖くなる。
何の事はない、PDCAのサイクルを上手くまわすほど学習していないからだ。
碁は知識もさることながら、経験もモノを言う。
怖くて打てないことが、上達の阻害になることは明らかだった。

そんな中、
学生時代の友人とペア囲碁(ミックスダブルス)の大会に出た。
ペアの棋力の和でハンデが決まるのだが、友人はアマチュア強豪クラス。
自然と対戦ペアは中段者の組み合わせとなる。
だいたいわたしがどれだけミスをしたかで、勝敗が分かれるようになっていく。
しかも、トーナメントではないので、勝っても負けても次のゲームがある。
対戦後のプロセスの振り返りで、自分のミスを累積的に引きずったわたしは、
会場でパニックに陥ってしまった。

思えばあれが、初めてのパニック発作だった。

その後、碁を打つこと、碁のネットワーク、
すべてがパニックの予期不安を呼ぶようになり、
その世界から遠ざかるようになっていった。
その後、仕事でも強迫観念のようにプロセスにこだわり続けたわたしは、
いろんな世界から遠ざかるようになり、
うつ状態と呼ばれるようになってしまい、数年が経つ。

友人はあれからペア碁に出ていない。
わたしを「初段”格”」まで育ててくれた彼に、
いつか優勝が降りてくることを、
願わくばペア碁でもいい思いをしてもらえることを、
祈っている。

|

« おひさしぶりです。(BlogPet) | トップページ | [占]キャラミル研究所 »

我、いかにして壊れしか」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 準優勝と次点:

« おひさしぶりです。(BlogPet) | トップページ | [占]キャラミル研究所 »